:三日月小箱「少し甘い二十之御題」より No.1
「どうした? 古代」
岩の上に立って、風に髪をなぶらせるままに潮風を受けて立っていた古代の耳元に、 特徴のある声が響いた。
空は青く、海は穏やかだ――。
水平線の果てに雲が浮かび、典型的な、日本の海の、空。
彼方に浮かぶ艦を眺め、古代進は少し顔をほころばすと、 振り向かないまま答えた。
あれが、新しい艦だ――進水式が始まる。
「いいのか? 行かなくて」
あぁ。いいさ――あの艦は、新しい乗組員と、 新しい地球の象徴だからな。
「――本当に?」
あぁ……俺は、こうして、ここから眺めているだけで。あとは、ヤツらがやってくれる。
古代――。
ふっとその気配が消え、古代進は振り返った。
いままで耳元で聞こえていた声が、空気に溶けてしまったような気がしたのだ。
「おぅい〜! 古代さぁ〜ん」
遠くから声が降ってきて、ぐぃいいん、と上空に点が見えた。
あっという間にそれは近づいて、轟音と同時に砂交じりの温風を吹きつける。
わっぷ、とそれを両手で避け、ゆっくりと空中に停止した艦載機を見た。
風防が空いて、若い顔がヘルメットを取り、顔を出す。
「まったくもう。――古代さん。早く来ていただかないと、式が始められないじゃないですか」
古代進はその濃紺の制服の襟を払うような動作をして、若い盟友を眺める。
「あぁ、すまなかったな、島――いま、行く」
「行くって……迎えは要らない、なんて仰るから。俺が使いに出されたんですからね」 ぷん、と怒る顔が、ともすれば誰かの面影に被った。
早く後ろに乗ってください、と急きたてられてひらりとその複座式に飛び乗る。
風が吹く岩礁を下に見やりながら、コスモタイガーΘはあっという間に上空へ上り、 1旋回して空を切った。
「――お一人で何を考えてらしたんですか?」
時々あそこに行かれているのは知っていました、と先ほどまで思い出していた男の年若い弟は問う。
彼との思い出の場所を、そういえば彼は知らない――そうだったな、 と古代は思い返した。
「新造戦艦は素晴らしいですね。俺はこのまま艦載機隊で乗り込みたくなりましたよ」
「そうか? 今からでも希望すれば乗っけてやるぞ」
「いや、ありがたくご遠慮します」
俺はまだ勉強中の身ですからね、と次郎は続けた。
島次郎は現在、転科して技官への道を歩んでいる。訓練学校に在籍のまま、戦闘班から非戦闘部門へ。 今回の就航には間に合わなかったのだ。――だが、焦るつもりはない。 彼は言う――時間はたっぷりあるのですから。
そうだ、今はな。古代は言う。
そうだと、いいな――ずっと、な。お前たちが戦いになど行かずに済むように。
先ほどの風の中に聞いた、親友の声がよみがえった。
蒼い空を見るたびに、その中を行くあの艦を思い返す。月の横に並ぶ、中空に浮いた、 あの星を見る――だがもう辛くはない。
風が吹くたびに――あの日を思い返す。
あの遠きイスカンダルの風を、あの惑星で得た、地球の希望を。
お前の温かい血を。
お前が残し、俺が受け取った、たくさんのものを――お前はいつも、風の中にいる。
俺の艦橋に、操舵席に。そうして弟の中にも――。
島。
また、俺は行くよ――新しい船出だ。
風が吹くたびに、お前の声が聞こえる。
俺たちの行く先には――宇宙にも、風は吹くのだ。
【Fin】
――31 Jan, 2011