一粒の麦


(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
 
 
:お題2006−No.81
パラレルワールドAの加藤三郎と佐々葉子


 一粒の麦、地に落ちて死なざるは
  それはただ一粒のみにて在らん。
  だがもし死せれば、豊かに実を結ぶようになる。
――ヨハネによる福音書 第12章24節


(1)

哲郎てつおを小学舎に迎えに行こうとして、その前に少々済ませなければならない用事
があった。いつもと違う道を通り、少し遠出をしたのが、運命だったのかもしれ
ない――。

その、今は珍しいレンガが埋められたコンクリートの瀟洒な壁と、そこから上に覗く
豊かな緑の木々。1人歩いていた佐々葉子の前に、ぽーん、とボールが落ちて
きて、目の前にコロコロ、と転がった。
ひょいと手にとり、見上げると、その木の上から男の子が見下ろしている。
着地地点を探しているのかきょろきょろ、と見回し、ひょい、と体をズラすと、枝から
ポン、と目の前に降り立った。敏捷な動き。
哲郎と同じくらいだろうか? かがんだ姿勢から体を起こすと、表情を変えない まま
無言で手を差し出された。
ん? 「あぁ、これ?」
手に持ったサッカーボールを指差すと、こっくりと頷く。
彼はジレたのか両手を差し出して催促した。あぁ――と渡してやると、こく、と小さく
お辞儀をする間ももどかしく踵を返そうとするので、
「お礼は? 手伝ってもらったら『ありがとう』よ」
息子と同じ年頃だと思うと、つい、そう言いたくなる葉子である。
子どもは目を見開き、何か言おうとしたが、口を開こうとしてまた閉じ。そのまままた
ペコリとお辞儀をして、駆け去った。
「ね、君――」慌てて追おうとしたが、(まぁ、いいか)とやめにする。
子どもには子どもの事情があるのだ。
葉子は改めてその壁を見てみた。――堅牢な囲い。だがさほど古びているわけでは
ない。だがあの子は逃げ出すように走っていったな――脱走か?
 それが、佐々葉子と、秋生あきみ少年の出会いだった。


 「あぁ――あの建物は施設だ」
帰宅した加藤三郎にその日の一件を話すと、彼はこともなげにそう言った。
「戦争孤児が多いんだけどな――片親でも迫害されたとか、DVや虐待の犠牲に
なった子なんかを親から離して育てるための施設だ。経営状態は良いぜ?」
あー腹減った、とソファに座り込みながら、ビール、と言った。
その少年が印象的だったこともある。――どこかで見た、目。まるで小動物のよう
に、警戒を緩めず、だけどどこか人懐こい。一瞬の邂逅だったのに心惹かれたと
いうのだろうか。
 何人くらいいるの?
 さぁなぁ――時期によって違うみたいだけど。もともと軍の管轄だったんだけどさ。
最近どんどん“戦後は終わった”とかいって、第三セクタとか払い下げになってるだ
ろ。あれもいくつかの民営化の一つでさ。――そうなってからはよくわからねーな。
 子ども好きで大家族育ちの三郎は、意外なことに詳しかった。
「あぁ、お袋がそーいう処、ボランティア行ったりもするんだ」
加藤の義母は小学校の先生である。

 「なんかあったのか?」
 こっち来いよ、とソファの横に座らせてまた、肩を抱きこみちゅ、とかしながら夫は
言った。
 ん、もう。子どもの前でしょ。もうわかる歳なんだから、やめないと。
「いーじゃねーか。俺はお前を愛してるし? 哲郎にだって明日香にだって、別に
恥じるこたぁないだろ」
「そーだけど…」教育上良くないってば、子どもの前で。
「そんなもんかな?」「そうなの」ぷん、と彼女は夫の腕の中からそっぽを向いて
立ち上がろうとした。
 わかったよ。悪かった悪かった。まぁちょっと座ってろ。
 「ご飯は?」「食べる」「じゃぁ、離してよ」あ、そうだな、と夫は頭をかいて
「おーい、哲郎、明日香。飯だぞ」と庭で遊んでいた息子たちを呼んだ。
 平和な、加藤家の夕刻である。

 
このページの背景とテーブルフォーマットはこちら

Copyright ©  Neumond,2005-07./Ayano FUJIWARA All rights reserved.


←2006-TALES index  ←Parallel-index  ↓次へ  →TOPへ  →三日月MENUへ
inserted by FC2 system